株式会社SAKIGAKEホールディングスは、2026年7月30日、とんかつ専門店『日本橋とんかつ一 HAJIME』の海外初店舗をタイ・バンコクの大型商業施設「セントラルワールド」にオープンすると発表しました。日本橋で培った職人の技と素材へのこだわりを、現地でも同等の品質で提供するという挑戦的な取り組みです。
参考:株式会社SAKIGAKEホールディングス プレスリリース(PR TIMES)
日本の外食チェーンによる海外進出は珍しくありませんが、「日本と同じ品質」を海外で実現することは、想像以上に難しいのが実情です。食材の調達、調理技術の継承、そして何より「日本の食文化」そのものをどう伝えるか——この課題に正面から向き合う同社の取り組みには、多くの示唆が含まれています。
本記事では、『日本橋とんかつ一 HAJIME』のタイ進出を入口に、日本食ブランドが海外で成功するために不可欠な「言語とローカライゼーション」の視点から考察していきます。
「日本と同じ品質」を海外で実現する難しさ
今回の発表で注目すべきは、「日本国内と同様の品質・味わいをタイでもご提供」という明確なコミットメントです。専用ポーク「はじめの夢」や「熟成 四元豚」といった厳選素材、パン粉から揚げ油、ソースに至るまでのこだわり——これらを海外店舗でも維持するには、サプライチェーンの構築だけでなく、品質基準を現地スタッフに正確に伝える仕組みが欠かせません。
日本料理店の海外進出において、しばしば課題となるのが「暗黙知」の伝達です。日本の飲食店では、「見て覚える」「空気を読む」といった文化的な前提のもとで技術や接客が継承されてきました。しかし、こうした暗黙の了解は、言語も文化も異なる現地スタッフには通用しません。
たとえば「衣がサクッと揚がっている」という表現一つをとっても、その「サクッと」がどのような状態を指すのか、温度管理や揚げ時間の数値だけでは伝わりきらない微妙なニュアンスがあります。職人の感覚を言語化し、異なる文化圏でも再現可能な形に落とし込む作業——これこそが、海外展開における「翻訳」の本質です。
メニュー翻訳の落とし穴:「直訳」では伝わらない日本食の魅力
『日本橋とんかつ一 HAJIME』のメニューには、「上ロース焼きかつ丼」「特選ひれ シャトーブリアン焼きかつ丼」「日本橋海鮮盛り定食」など、日本人には馴染み深い料理名が並びます。これらをそのまま英語やタイ語に直訳しても、現地の顧客に魅力100%伝わるとは限りません。
「ロース」「ひれ」は世界共通ではない
豚肉の部位名称は国や地域によって異なります。日本で「ロース」と呼ばれる部位は、英語圏では「loin」に相当しますが、カット方法や厚みの基準は異なる場合があります。「ひれ」は「tenderloin」ですが、「シャトーブリアン」という表現は本来牛肉に使われることが多く、豚肉に適用する際は補足説明が必要です。
農林水産省の「日本食・食文化の海外普及」施策においても、日本食の正確な理解促進には、単なる言語変換ではなく、食文化の背景を含めた情報発信が重要であると指摘されています。
「こだわり」をどう訳すか
日本の飲食店が好んで使う「こだわり」という言葉も、翻訳の難所です。英語で「commitment」「dedication」「attention to detail」などと訳されることがありますが、いずれも「こだわり」が持つ職人気質や妥協を許さない姿勢を十分に表現しきれません。
『日本橋とんかつ一 HAJIME』の強みである「一枚一枚丁寧に揚げる」という姿勢を、現地顧客の心に響く言葉で伝えるには、翻訳ではなく「ローカライズ」の発想が必要です。同じ意味を伝えるのではなく、同じ感動を伝える——それがローカライゼーションの本質です。
「Neo和モダン」空間と、言葉で伝える日本文化
今回の発表で興味深いのは、店舗空間のコンセプトとして「Neo和モダン」という表現が使われている点です。「日本の伝統を大切にしながら、現代的な感性を融合させた」という説明は、日本人には直感的に理解できます。しかし、タイの顧客にとって「和モダン」とは何を意味するのでしょうか。
空間体験を言語化する重要性
プレスリリースでは「木の温もりや素材の質感を活かしながら、日本らしい美意識と現代的な快適性を両立」と説明されています。「日本らしい美意識」という概念を、どのように他の国で伝えられるでしょうか。
たとえば、日本人が「和」の空間に感じる「落ち着き」や「静謐さ」は、ミニマルなデザイン、自然素材の使用、余白の美学といった要素から生まれます。これをタイの顧客に伝えるには、「Japanese minimalist elegance」「natural warmth inspired by traditional Japanese aesthetics」といった、現地の感性に橋を架ける表現が必要になります。
「おもてなし」の国際コミュニケーション
同社は「日本ならではの食文化とおもてなしをそのまま現地のお客様へお届けします」と宣言しています。「おもてなし」という概念は、単純な翻訳では伝達が困難な日本独自の文化的概念です。
「Hospitality」という英訳が一般的に使われますが、日本の「おもてなし」には、相手の期待を超えた気配り、言葉にされないニーズへの先回り、そして見返りを求めない奉仕の精神といった、より深い含意があります。現地スタッフがこの精神を体現するには、マニュアルの翻訳だけでなく、文化的な文脈を含めた研修プログラムが不可欠です。
タイ市場における日本食ブランドの言語戦略
タイは日本食の海外展開において重要な市場の一つです。JETROの調査によると、バンコクには多数の日本食レストランが存在し、日本食は現地で高い人気を誇っています。しかし、競争が激化する中で、差別化の鍵となるのは「本物の日本」をどう伝えるかという点です。
タイ語ローカライズの特殊性
タイ語は、日本語や英語とは大きく異なる言語構造を持ちます。敬語表現の体系、文字の特性、そして音声言語としての特徴——これらすべてが、メニューや店内案内の翻訳に影響します。
たとえば、タイ語には日本語のような明確な敬語体系はありませんが、丁寧さを表現するための語尾や呼称の使い分けが存在します。高級感を演出したいとんかつ専門店のメニューには、カジュアルな表現ではなく、品格を感じさせる語彙選択が求められます。
SNS時代の多言語コミュニケーション
『日本橋とんかつ一 HAJIME』は、タイ向けのInstagramアカウントやTikTokアカウントも開設しています。SNSでの情報発信は、メニューや店内案内以上に「生きた言葉」が求められる領域です。
投稿文のトーン、ハッシュタグの選定、コメントへの返信——これらすべてにおいて、ブランドの世界観を一貫して伝えながら、現地ユーザーの感性に響く表現を使い分ける必要があります。機械翻訳では対応しきれない、文化的なニュアンスの調整が成功の鍵を握ります。
まとめ:グローバル展開は「言語戦略」から始まる
『日本橋とんかつ一 HAJIME』のタイ進出は、単なる店舗展開ではなく、日本の食文化そのものを海外に届ける挑戦です。職人の技、素材へのこだわり、空間設計、おもてなしの精神——これらすべてを「日本と同じ品質」で提供するという目標は、言語とコミュニケーションの課題を避けては達成できません。
海外展開を成功させる企業に共通するのは、翻訳を単なるコストではなく、ブランド価値を伝えるための投資として捉える姿勢です。メニューの一行、店内案内の一文、SNS投稿の一言——それぞれが、現地顧客との最初の接点となります。
アットグローバルは、翻訳・ローカライゼーションの専門企業として、飲食業界の海外展開を多数支援してきました。「日本の価値を、世界に届く言葉で」——そのお手伝いができれば幸いです。



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